being qua being

情報的な何かと政治的な何か

入社3年目、良い上司との100時間は2年のサラリーマンで得た学びを超える

自分にとってこの数年間は停滞の期間だった。


興味のない仕事に日中のほとんどの時間を費やすことに苦痛を感じながら過ごしてきた。


とっくに辞めた上司が言っていた「入社して何年か経つと顔が死んでくるんだよな」という言葉に、
「そうならないように頑張ります!」と答えた新入社員の頃の自分が懐かしい。


こうして停滞していた僕だが最近になってすこしいい流れになってきた。
それはいい上司と仕事をする機会があったからだ。

上司(管理職)の仕事とはなんだろうか?

プレーヤーとして個々の能力が活かせても、マネジメントになるとまったくもってチームを回せない人は珍しくないように思う。
特に自分が優秀なプレイヤーであるがゆえに管理職としての心構えを自ら入れ替えなければ、
できない部下、動けない部下にたいして不満を募らせるばかりで、結局部下の心が離れていく。


僕の会社は幸いにして個人プレーが許されている。
専門職としてその道を突き進む人もたくさんいるし、それも一つの尊敬されるポジションだ。


それであるがゆえに僕の会社はチームとしては非常に弱い。
仕事をうまくこなせない人は病んでしまったり、やめていったりするが、
会社としてそういう人をケアするような体制はなく、強く、順応する人間だけが自然に残る。
だからマネージャーも管理しなくてもそれが評価につながらないし、それも許されていると言える。

2年間、何も考えないでやってきた

どんな仕事もその人の気持ち次第で学びになるというがそれは強い人だ。
それはそのとおりだと思うし、学ぼうとする意欲が大事だということもわかる。


僕は2年ほど働いてきた。別に評価がすこぶる悪いわけでもない凡庸なサラリーマンだが、
真剣に仕事について考えたのはわずかに数日だろう。


そう、何も考えずに仕事をしてきたと言っても言い過ぎではない。
考えると言っても何かにこねくり回したり、悩んだりしているだけで価値のないものに頭を使ってきた。


何も考えてないのは学ぶ気持ちがないからなのか?
それともその会社で必要なスキルの型が無いからなのか?


仕事には型があるというが、型を身につけるには正しい型を指導する師匠が必要だ。
オリジナリティは模倣から生まれると思っているし、正しい型を身につければ変幻自在にその型を応用できる。


それでも、私は今まで型を身につけられるほどの学びを得た記憶がない。
自分で考えて作ったものがこっぴどく酷評されることもなければ、
過去にあった良い作品を少しばかり改造して新しいものに作り変えたものが褒められることもない。


仕事を依頼されては、こなす。依頼されては、こなす。
非定型業務が多い仕事では有るが、毎日がこの繰り返しであって、
この専門分野の枠を超えることはまずない。


僕は次第に手を抜いていた。顔も死んでいた。

新しい上司との出会いと初めての学び

その上司と出会ったのはたまたま席が近かったからだ。
10年以上のキャリアが有る管理職だった。


縁あってその上司と仕事をする機会が持てた。
最初はこれまで通りに今まで経験のある仕事をレバレッジしてちょいっと出せばいいと考えていた。


文章一つとっても「これまでこの文章を使ってきたから」という理由で使っているだけ。
言葉の使い方一つをとっても自分のオリジナリティで勝手にやっていたし、
教科書にそう書いてあったからそうしたという程度の考えで仕事をしていた。


そうした手を抜いた僕にその上司は正面から向き合ってくれた。
言葉の使い方一つ、公式の裏にある考え方、デザインの意味、全てを細かく解説していった。


目からうろこだった。


外資系コンサルのパワーポイント」のような本を立ち読みして、それっぽい見た目の資料を作ることはできていても、
その内容の根拠や背景を何一つ考える機会のなかった私にとって、
こうして長時間真剣に向き合ってくれた上司は初めてであり、学ぶ面白さを感じた。




  • すべての文には意味がある。 全ての図には意味がある。
  • 自分がクライアントに説明する気持ちで一度読み返す。
  • 三段論法のように、前から論理をつないでいく
  • 初めて読む人でもわかるようなユーザー目線

他にも技術的なことを多く学んだ。


成果物の質はぐんと上がった。
成果物の見方も全く変わった。


よく出来る人だと思っていた人の成果物を改めて読み返すと、全くもってできてないことに気づいた。
難しいことを並べて、すごいと思っていた人の成果物も、単に知識のない人をけむにまくための道具に見えた。


この上司に「考えてやりましたか?」と聞かれて、
「ちゃんと考えてます!」と少し怒りを感じながら口答えした僕。
それを逆撫でることなく、「やってないじゃないか」と否定することなく、考え方を一つ一つ教えてくれた。


僕は自分の気持ちで仕事への取り組み方を変えられるほど強い人間じゃない。
口ではポジティブだ。幸せだと言っているが、そればかりに染まれるほどの人間でもない。


おとなになった頃から「誰かに怒られたい」時々、そう思ってた。
年を取れば取るほど怒るくらい誰かに真剣に向き合うことが少なくなってる気がしたからだ。


誰かにこうして気づきを与えてもらわなければ、僕は腐っていく。
深く関わることを避けずにまっすぐに向き合ってくれた上司には感謝しかない。


2年という時間よりもその上司との半年のほうが学びが多かったのは間違いない。

1万時間の法則をバカに信じるな

人間は1万時間やればそれなりのスキルが身につくのだというが僕はそうではないと思う。


1万時間をパチンコに費やしてもパチプロにはなれない。
1万時間鉄道写真を撮っていても鉄オタのトップにはなれない。

1万時間パチプロになるための研究をした人間はパチプロになれるかもしれない。
1万時間鉄道写真を撮りながら、自らの写真の魅力を発信し続けた人は鉄オタのトップになれるかもしれない。


サラリーマンは1年間に2,085時間仕事をする。
5年勤めれば1万時間なのでその会社のサラリーマンとしてはプロフェッショナルと言えるだろう。
それでもどうだろうか。仕事のできない6年目の社員はたくさんいるだろう。
上司にはなってほしくない人もたくさんいるだろう。


1万時間をどのように費やすのかを真剣に考えなければ意味がない。
その1万時間を正しい方法で行った結果として、何かを身につける、自己を成長させることができる。


入社3年目の僕は今の会社で1万時間を費やす気はないが、
良い上司とともに学んだ時間は2年間のどんな上司、どんなプロジェクトで得た学びよりも大きかった。


何かひとつ学べることがあったという自信を得られた人とそうでない人は、
これから先に学びを掴み取るまでの心構えに大きな違いがでてくる。


何かを学び取ってやるぞという心に火をつけてくれた。
そしてそれに食らいついた自分は確かに頭を使った。


そういう時間を一緒に過ごしてくれたことに感謝している。
僕は会社に入って初めて良い上司に巡り会えた。