being qua being

情報的な何かと政治的な何か

僕には行動力がない、それでも進む

「行動力がない」という事実

先日、親しい友人に「お前ってすごく考えてるけど行動に移せてないよな」と言われた。
「ははは、そうだよな、わかってるんだけどな」笑ってごまかしたが、そのとおりだ。


僕には行動力がない。


それでも、自分の人生を左右する決断は自分ですると5年前の僕は決めた。
大学院留学することも、今の会社に入ることも、ラジオ英会話を始めようと思ったその決断も。
それでも頭で考えていることに比べたら行動が鈍いのは自覚している。


高卒で従業員200人の企業の取締役に就任した人
起業するために会社をやめた人
海外就職するために会社を休職した人
博士課程に進学しながらNPO活動をしている人

どんな人でも「それはすごいね」と驚くような決断をして、行動をしている人が周りにはいる。
そういう人になりたいわけではないが、ふと気づけば自分の状況は何一つ変わっていないのではないかと思うことがある。


だから「行動力に移せてない」というのは自分でも自覚していることであるし、
人からもそのように見られているのだと突きつけられたのはやはり痛い。

行動するというのは何なのか?

何かを成し遂げるために行動力が必要であるという認識に異論はない。
全ての選択が行動を伴い、将来の自分を左右する。


何も考えずに行動することもまたひとつの打開策として有効であるが、
行動せざるを得ない状況で考え、行動に結びつけていることが最も望ましいだろう。


僕は考えすぎて行動できないタイプなのだから、
ある程度考えたら行動してみるのも悪くないかもしれない。


それでも頭の中を駆け巡るのはこんなことばかりだ。


「行動した後に自分に自信が持てずに心が折れてしまうかもしれない。」
「周りの人に失敗を掘り返されて笑いものにされるかもしれない。」
「もしうまく行かなければ信用を失い、場合によっては借金を背負ってしまうかもしれない。」


いや大博打を打つことが行動をするということではない。
これまでも色んな選択を自分で決めてきたけれども、それは行動ではないというのだろうか。


行動するというのは一体何を指しているのだろうか。
人が「それはすごい」といわれるような行動をすることが行動力なのだろうか。

自分がかっこいいと思う行動をとりたい

これまで行動に移せずにもじもじ時間だけが過ぎていたのは、ひとつのことに時間を割かなかったからだ。
僕ほど色んな分野に顔を出してそれなりの知識を得て、やりたいことがたくさんある人間はそんなに多くない。


確かに人が「すごいね」というような行動はしていないけれど、
一つ一つの選択は考え抜いた上での結論であって、すべての選択に行動は紐付いて、今の自分がいる。


「行動に移せてないよね」と言われた自分の性格は間違ってない。
だけれどもすべての人間が大胆な行動を取れるわけではないとも思う。


自分にとっての行動というのは一つ一つの小さな決断の結果であって、
今の自分を構成しているものではあるけれども、今現在が最終形ではないと思っている。


そうなれたらかっこいいと思う自分に近づくためにいろんな決断を自分でした上で、
少しづつ進んでいるという実感だけは誰にもわからない。


僕には確かに行動力がない、それでも進んでいる。