being qua being

情報的な何かと政治的な何か

人間は意外と利己的じゃない!?

人間は利己的か利他的かという問いは古代ローマの時代から人間を悩ませてきた。
しかしながら、最近の研究が示すところによるとそのどっちもであるという事がどうやら真実のようだ。

早速だが、次のようなゲームを考えよう。

1000円を分配するゲームを行う。Aがその分配割合を決定することができる。BはAの申し出を受け入れるか拒否することができる。
互いに合理的な選択をする場合、Bは無条件でAの申し出を受け入れればいくらばかりかは得ることができる。よってAは自分の取り分が最大になるような提案をする。

もしあなたがBだった場合1円という申し出でも受け入れるだろうか。もちろん拒否したら1円も貰えない。

このような実験を行った場合総額の10%以下、つまり100円以下の金額をBに提案する人間はほとんど居ない。大多数は総額の40%から50%であることが多い。

一方、Bは分前が20%に見たなければおよそ半分の確立で提案を拒否する。
これは1円でも貰えれば無いよりマシという合理的な結論からは考えられない。


それでは、さらにBには拒否するといった選択の余地すら与えない「独裁者ゲーム」を考えてみよう。
つまりお金のわけかたはAが一方的に通告し、Bはそれに従うしか無いという、かなり一方的なゲームである。

このゲームの実験結果も大差ない。先ほどのゲームよりはBに与える金額は下がるが、この場合であってもゼロよりはかなり多く分け与えることが分かった。


じゃあ、こうした寛大な態度は利他主義によるものなのか、公平性を重んじた結果なのかを見極めよう。

これも実験も行われている。コイントスによって完全ランダムにAとBの役割を決めるゲームと学力テストの勝者がAの役割を演じることができるゲームの結果を比較する。すると、Aの方はある種の優越意識が芽生えるため、相手に提案する金額は確かにコイントスの場合よりも10%減少するが、それでもゼロよりはかなり高い。

つまり、利他主義精神が強く働いているのである。この利他精神はどこからくるものだろうか。恥の意識だろうか?


いや、しかしながら、実験でBが提案を拒否するのは、実験で提供される金額がたかが1000円程度であるためであり、大きな金額の場合は、提案を拒む可能性は極めて少ないのではないかと思う人もいるだろう。

この点に関しても実験が行われている。
提供される金額がその国の月収数カ月分に匹敵するような所得水準の国で同様の実験を行った。

しかし、この場合も大差ない。Bの拒絶率はある程度低くなるが、Aの提案が際立って利己的になるということはなかったのだ。(100万円の分配ゲームを行った場合であっても、AはBに対して40万円程度の申し出を行う。)

むしろ、決裂した場合失うものがはるかに大きくなるのは、AもBも同じことであるので、拒絶されることを恐れるAは豊かな国の人々以上に身長に提案内容を考慮しているのである。


さらにこのゲームが何回も行われる場合、過去のプレーで平等や利他精神を持つ人に褒美を与え、その原則を守らない人にバツを与えようという心理も現れるだろう。

進化心理学では、公平性や利他主義を尊重する規範が形成されている集団は、私利私欲だけで行動する人間集団に比べて内部対立が少く、全員に恩恵をもたらしたり、共有の資源を保全したりといったグループ行動をとる。そのため、内部対立に費やすエネルギーも少なくなり、そのような集団は経済的に潤う。

ある程度の公平性と利他主義は、進化のプロセスにおいて生存競争に打ち勝つ上で役に立ってると考えられるのだ。