being qua being

情報的な何かと政治的な何か

交渉の極意は相手の立場を理解するのではなく相手に想像させること

ここのところ韓国の外交官と議論をする機会が頻繁にある。彼らはまず日本で言う外務省、韓国なら外交通商部に入省した後、1,2年海外留学の経験を経てどこかしらの国や本国に配置される。1人の新人外交官はアメリカのスタンフォード大学で1年勉強した後に、中国の人民大学で中国語と国際関係の勉強をしているそうだ。もう一人の30代外交官はソウル国立大学卒でハーバード大学で修士号、今は北京大学で勉強しているという。

彼らは非常にフランクで英語はもちろんのこと中国語、日本語も少し話せる。まあ外交官ならそのくらい当然なのだが、それ以上に尊敬できるのは、彼らの学ぶ姿勢である。私は月に一度このアジアを中心とした国際関係の勉強会に参加している。この勉強会は韓国人が中心となって開催しているものなのだが、ここに外交官である彼らも参加するのである。

昨日は私が「日米同盟と日本の対米政策の2つの潮流」と題したプレゼンをしたのだが、私の拙い英語も彼らも真剣に聞き、疑問点を私にぶつけてくれる。特に新人外交官はプレゼンを片っ端からメモし記録に取っていく。日本からの視点、中国からの視点、韓国からの視点。彼らにとっては互いの考え方に正面から接することができるいい機会なのかもしれない。

韓国としてはアメリカとの同盟を維持して、北朝鮮の脅威にも備えたいし、南北統一が達成されたとすれば中国と直接接することになるからそれはそれで重要な同盟として捉えている。しかしながら一方でアメリカからの独立(これも日本と同じだ)を訴える自主外交路線の声も増しているので現状は親米保守政権であるが将来的にどうなるかは分からない。

希望としては日本、韓国、アメリカという3国の連携を模索しているのだが、日本と韓国の間には歴史的な大きな溝があり上手く回らない。しかし外交官の彼らに感心したのは、彼らが日韓関係に触れた時、従軍慰安婦の像(在ソウル日本大使館前にあるという)の写真について、私が居たためか「慰安婦(韓国語では挺身隊)」という言葉を使わず、「複雑な問題」として説明したことである。

何かを説明する時に自然に使った言葉が、相手国には不快に感じることというのはよくある。例えば尖閣諸島と釣魚島なんかはそうだし、竹島と独島、日本海と東海のようなものである。こういうときは自分の国を代表する気概の強い人は自国の言葉で押し通そうとする。バランスが取れている人は並列表記する。

しかし彼の説明の仕方はそのどちらでもない。「複雑な問題」として説明することによって、背景はリスナーの知識に任せているのである。そうすれば私は日本人であるから日本の立場からこの問題のことを認識するし、韓国人はまた韓国の立場からこの問題を自然に認識する。ここで「慰安婦(挺身隊)」という単語を使うことが、日本人の心を傷つけ、内心で反発を引き起こす可能性があるということを十分に承知しているからこそあえてこの単語を使わずに説明したのである。

「相手が知識を持っている場合、別の中立的で曖昧な単語に置き換えても説明することができる」この方法は非常に外交的だと思う。外交官というのはこのようにして相手国と対話していくのだという良いお手本を見せてもらった。