being qua being

情報的な何かと政治的な何か

ネットワークミュージッキング−「参照の時代」の音楽文化


筆者はデジタル録音技術の登場によって音楽の形がモノから情報へと変化したという点に着目する。
そして「所有」と「参照」という2つの概念を導き、今日では所有だけでなく、参照にその重きが置かれていると指摘する。


所有については「我々は著作権システムによって魔術が封じられた現在にあってさえ、表面的にはその規則に従いつつも、心の奥底では、音楽の似姿を所有することに何かえもいわれぬ特権的な意味や意義を見つけ出そうとする。(中略)所有することの魔力を完全に払拭できずにいるのだ。」と論じ、第3章でデジタル化=脱「モノ」化について解説を加える。


そもそもデジタルと言う言葉はコンピュータにおける2進数での記録であるからそのパターン自体は不可算的な性質を持っており、情報に複数性はない。デジタルコピーということば自体矛盾しているのであって、我々の言うコピーというのはオリジナルCDから別の媒体にに定着することのよって初めてコピーが達成されると考えているのである。


CCCDは多くのリスナーから反発されたが、その技術的な難点についてはもちろんのこと、CCCDそのものの本質について筆者は次のように論じている。CCCDは、『CCCDというモノを持たない限り音楽が聞けない』という状況を作為的に作り出すことで、リスナーの欲望の帰着点である『録音された音楽』を、情報という無体の状態から、直径十二センチのプラスチック盤へとすり替えようとするのだ。」


モノの所有というよりも、情報として得たいという欲望がリスナー側に存在し続ける限り、コピーコントロールを突破するイタチごっこからは逃れることができないのである。



「蓄積」されるものとしてのMD、CDは過去に手に入れた音楽はほとんど消されることなく増殖し増え続ける。しかしデジタルオーディオプレイヤーは巨大な記録媒体として「持ち出す」ためのもの、これを筆者は巨大なiTunesストアの例を挙げて、キャッシュメモリという形で、「ただ必要なとき必要な部分を適宜『参照』すべきものとして」記録しているのであると説明する。

つまりこのキャッシュメモリ型のオーディオプレーヤーも「いつでも、どこからでもデータソースへとアクセスできる理想できなネットワーク環境を手にすることで」変化していくと考えている。


だから、何百ギガバイトにもおよぶ音楽のリストを持ち歩き欲望を満足させるユーザーとちょっと気になった曲を適宜オーディオプレーヤーに移して「参照する」ユーザーは別ものであると言えるのだ。音楽マニアは所有すること、つまりモノとして音楽を大量に持ち出すことを重視するのに対して、一時的にオーディオを貯めこむ場所として、音楽を「参照する」のである。

だから通信機能を備えたオーディオプレーヤー、IPodTouchや音楽プレイヤーは「参照するもの」としてのプレイヤーの姿を大きく変え始めていると筆者は考えている。


5章、6章ではウィニーや通信カラオケ、音楽配信に関しても「参照」というタイトル通り、考察が続くが、今回私が取り上げたい話のメインではないので省略する。


続いて7章で、筆者はニコニコ動画にみられる作品の改変を「類似者の更新」の状況と呼び、その原因に機材入手が容易になったこと、著作権意識の低下といった原因に見るのではなくニコニコ動画のようなCGMが有する、コンテンツの書き換え・書き加えの『し易さ』という特徴」という点に着目している。


タグによる「子」と「親」のつながり、共有がそのバリエーションを増やし、「ひいては関連動画全体の知名度アップやアクセス数増加につながる。」という指摘は「歌ってみた」「踊ってみた」「演奏してみた」など「〜ってみた」系のタグが付けられている各ジャンルでも見ることができる。


以前私も『ニコニコ動画とオタクとしての創作活動』というタイトルの記事を書いているが、その中で私が指摘した

「有名な楽曲のアレンジと称してタグを介してリスナーを集めるという希薄したリスペクトが存在するのではないだろうか。」

http://d.hatena.ne.jp/hapwish/20101226/1293345471

という指摘は「希薄したリスペクト」という言葉の説明が不十分であることを除けば、あながち間違いではなかったと再確認した。



筆者はこのニコニコ動画独自のサービスを「コミュニケーションという要因をより強く前面に打ち出したサービス」であると述べている。つまり「弾幕」と呼ばれる荒らしにも近いコメントの嵐はニコニコ動画特有のコミュニケーション方法であり人気度を図る目安になっているのだ。そういった力学がニコニコ動画の流行曲を生み出しているのだという分析には共感を覚える。また筆者の指摘ではないが、引用されている一文に鋭い考察を見つけた。


文化の発展において、従来のピュアオーディオマニアや本好きの人々がいるように、MP3や紙媒体などデジタルなものが果たして受け入れられるのかという問に対して、「電子デバイスで『読む』人とは、本などあまり好きではなく、あまりよみもしない人たちの中にこそ存在しているのだろう。こうした本好きではない人々の『読む』領域のほうが現実ははるかに広い世界を擁している(萩野[2003])」


従来の音楽文化と新しい音楽文化はこの時点で大きくその対象が異なっていることに我々は注意を払ってこなかった。「音楽はただ聞こえればいい。」「文章から情報が得られればいい。」というような人々は、そもそも音楽が好きなのでも本が好きなのでもない。


その情報をまさしく「参照」することで、流行に遅れないよう周囲の人間と話を合わせたり、時間を潰したりできるのである。
そして、実際にむしろそういった人のほうが多いのだから。