being qua being

情報的な何かと政治的な何か

ニコニコ動画とオタクとしての創作活動


ボーカロイドを使って自分の楽曲を発表する場としてニコニコ動画は多くのオタクに使われている。


中でもニコニコ動画において特に顕著なのは、いわゆる二次創作物の宝庫であるということだ。そこでは常にオリジナルとコピーの区別はなくなり、三次創作や四次創作まで連続的に行われている。


サブカルチャーはデータベース消費であると批評家の東浩紀は言う。萌え要素による効率のよい感情的な満足を与える作品があり、そのような作品の単位をさらに解体してデータベース化することによって新たなシミュラークルを作り、それをもとに前提知識の必要な深読みしたハイコンテクスト作品を発表する。というのがこの世界の常識だ。



今回とあるボーカロイドPが、歌い手と呼ばれるカバーアーティストによって過度に曲の権利侵害が行われているのではないかと疑問を呈した。

特に「ミリしら」と呼ばれる、曲の歌詞やメロディーを大きく変えた創作や、「アナザー」と呼ばれる、これまた(原作のオケを利用して)別バージョンの曲に仕上げて発表する創作を、安易とも取られかねないリスペクトに免じて曲を利用する。ある人はその二次創作した曲をCDとして売る。(完全にお金を取るのは論外だとは思うが)そのような「歌ってみた」の安易な態度に疑問を覚えたという。

本当にいい歌詞だと思うなら、本当にいいメロディだと思うなら、それを大事にするはずなんです。
そういうことをせずに、曲名だけそのままに、歌詞やメロディをすっかり変えて、あたかも「俺もアーティスト!」みたいな顔でアップされると言うのは、作詞者・作曲者に対する一種の冒涜ではないでしょうか?
「アナザー」も「ミリしら」も、結局は「ハイエナシリーズ」とでも名付ければいいんですよ。
原詩・原曲を作った人たちの努力の結晶を、横からハイエナしていくんです。
大体「ボカロ曲を歌ってみた」という界隈そのものがハイエナに近い部分もあります。
有名歌い手の皆さんは大体、有名Pが曲を出したり急に伸びる曲があったりすると、その曲をこぞって歌います。

http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-16.html


彼の発言は、安易なリスペクト発言によって有名な曲の知名度に便乗して、自らのオリジナリティーを発揮しようともせずにカバーしてきた歌い手への牽制としても取ることができる。


私もこの世界で活動をしたことがあるのだが、とある知り合いもこの「アナザー」によって有名になった。彼はあるボカロ曲の歌ってみたカバーによって人気がでて、現在、有名歌い手としてライブなどの活動を行なっている。

活動によって利益が出ているのかは分からないが、(お金についての言及はこの際取り上げない)音楽の世界を目指す若者のブレイクの場としてこの「歌ってみた」の場が使われていることもまた事実で、そこには作曲者、作詞者へのリスペクトはないとはいえないが、ニコニコ動画というインターネットを介す事によって希薄したリスペクトを感じざるを得ない。


楽曲の権利や利用に関する問題については単純な話で、もとの原作者と歌い手の間で一種の合意があれば良いのであって、ほとんどの原作者は許可なしでの利用を容認している。合意の手続きを求めるか否かは自由である。

原作者の意図を超えた改作が自由に行えるかといった点については、そもそもニコニコ動画という場所自体。むしろ、作品を解体してデータベース化することによって新たなシミュラークルを作り出す場であるという認識が強いため、原作者の意に沿わない二次創作品が投稿されることを断固として拒否することはできないと思われている。むしろ許容しなければならない空気がある。


だが、「一ミリも知らないけど歌ってみましたが何か?」と言わんばかりの「ミリしら」というネーミングにニコニコ動画の残酷さが現れているように感じる。


有名な楽曲のアレンジと称してタグを介してリスナーを集めるという希薄したリスペクトが存在するのではないだろうか。


それをよしとする広い心を持つ文化がニコニコ動画と解することもできるが、原作者として自分の作品を発表し、そのまま見てほしいと思うのは当然であり、二次創作自体を快く思わない製作者、プロデューサーがいるのは当然だ。


そのような「ニコニコ動画の原則」を受け入れようとしない作家を追い出すような空間がニコニコ動画であることも事実である。
彼らの関心ある世界、必要な欲望を充足させないような創作者はいらないし、反発する者に対しては「作品を消費している視聴者の代表」という理解不能な権力を行使して退場させる。

「分かる人には面白い。わからない人には面白くない。だから、分かるひとだけ来ればいい」という論理が通じるのもこの世界の特徴であり、雑多な趣味や思考や思想を持つ人間が行き交う現実世界とは一線を画していることが明らかだ。(彼らニコニコ動画の世界を守るために働く人を「ニコニコ右翼」と称するのはどうだろうか)

その点を受け入れられる人と受け入れられない人ではこの問題に対する考え方は大きく異なってしまう。



この安易なリスペクトの根底には「人間のボーカルよりも手軽に自分の曲を歌ってくれるボーカロイド」という考えを少なからずもつプロデューサーが増えているというのもあるのではないだろうか。

特にPOPSの楽曲で顕著であるが、自らの楽曲の発表の場として、ボカロに「とりあえず」歌わせる事によって、また、聞こえのよい「ボカロオリジナル曲」というようなタグを付けることによって、楽曲を生産するプロデューサーが多いように思う。


私はそれ自体を否定するわけではないし、ボーカロイドの使い方は決められたものではないが、そうであるならば「歌ってあげている」とまでは言わないが、プロデューサー側もそういった需要を予定しているわけであるし、楽曲のブームに便乗したと思われる希薄したリスペクトが蔓延するのも仕方のない話である。

参考URL:『ボーカロイドが嫌いな理由』-見たり聞いたりしたこと

http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090515/1242392252


今回疑問を呈したプロデューサーの作品を拝聴したところ、こういった反発するのはある意味当たり前かな。と感じる。というのも、ボーカロイドを音楽の一部に取り込んでいる作品である。一体化した作品においてボーカロイドに与えられた役割は楽曲を構成する重要なパーツの一つであるといえる。

そのような作品を作るプロデューサーは自らの作品を改変されることを嫌がるだろう。人間が歌ってしまったら意図した作品ではなくなり、彼の手を完全に離れてしまうからである。
ここが「はじめから人間が歌おうがボーカロイドが歌おうが伝えたい事は変わらない」というプロデューサーとの違いである。(もちろん両者に優劣は付けられない。)


だが、やはりニコニコ動画においては「笑い」「ジョーク」によるオタクハイコンテクストな作品以外を許容しない。みんなで共有するものであり、原作から二次創作への伝承によって生まれるつながりこそが、原作の価値を高めるものであると信じられているし、事実二次創作から原作の評価を高めるという逆説的な現象も多く見られる。


最後にニコニコの文化という視点から今回の出来事を分析しているtaitiro氏のブログを引用しよう。

ニコニコとかのネット文化の底流にあるものとは、基本的には「パロディ」だと僕は思うわけです。もちろん全くのゼロからオリジナル作品を作るという人もいるでしょう。そしてそういうのが人気を得ることもあるでしょう。しかしそうすればただ「人気がある作品」は存在したとしても、「ブーム」は生まれないわけです。何故か?ネット上のブームっていうのは結局、あるコンテンツがあったときに、それに対してパロディやら二次創作やらが大量に生まれてきたときに、初めて可視化されるからです。
(中略)
ある一つコンテンツに対し、様々な二次創作が生まれ、そしてその二次創作同士と原作がタグ機能などによって繋がりネットワークが生まれる、そしてそのネットワークに乗って人々は一つの動画から様々な動画を見て、それらが「ブーム」になるわけです。

http://blog.livedoor.jp/taitiro/archives/1338049.html


二次創作物やライトなリスペクトはオタク文化としてのニコニコ動画が成立するためには避けられないものあり、ニコニコ動画の醜い部分を抉り出したのが今回の出来事だったのではないかと思う。また、今回のプロデューサーの発言も、制作者の意図や思いというようなものを少しでも考えてほしいということが意図だろう。


歌い手もプロデューサーも考えるべきことは、ボカロうんぬんを超えてニコニコ動画における創作活動全体のシステムにまで及ぶもの非常に重要な問題であるように思えるのだ。