being qua being

情報的な何かと政治的な何か

Ⅱ−中国の若者達の不満

2010年に起きたデモについて中国政府は「デモが予想以上に膨れ上がったため押さえることができなかった」と釈明しているが、それは全く対策を取らなかったからであって当然である。今回は本格的な外交問題であることから、対国内へのポーズとして中国政府は強気な姿勢を示さざるを得ない。

棚上げ論すら一般的ではない中国世論。

結果的に日本が折れたことによって面目は保たれたが、中国政府としてもこの問題はいち早く沈静化したい問題である。なぜなら実質的に日本に実効支配されている尖閣諸島は「問題の棚上げ」と言う形で橋本総理時代に再確認されているからである。これを中国としては中国国民に政府に対する多くの不満と同列に批判されることになると2重に痛いのだ。

エリートにとって尖閣諸島問題は些細なこと

北京、上海の2大都市については公安も厳格な警備体制を整えているが、一方で武漢や内陸部の都市は万が一テロや暴力行為が起こったところで被る損害が極めて限定的である。
今回のデモは学生が中心となって起こしたとされているが、上海や北京は中国のエリートを輩出する中国国内でも一流の大学が集まっており、これらの大学に通う学生には将来政府の官僚や国営企業のエリートなのでこういったデモはあまり興味がない。デモで叫ぶことが自らの将来をより良いものにするために何の意味もたないからだ。

一方で内陸部の大学を卒業した人は、大卒でも職が見つからない。かつては大学を卒業することが高収入を得るための条件であり、大学を卒業すれば高収入を得ることができると信じられていた。しかし大卒であっても供給過剰になっているのが今の中国である。(詳しくは『蟻族』を参照)

彼らが抱えている将来への不安の唯一合法的なはけ口が日本へのデモ活動であり彼らにできる唯一の表現である。大学に通うことのできた彼らはまだしも、高校すら出ていない貧しい環境で働かざるをえない若者が数多くいる中で今回のデモは彼らの日常への不満が爆発したことで起きたものである。