being qua being

情報的な何かと政治的な何か

リア充って言葉なんか嫌いだ!

一時期はてな界隈を騒がせた「リア充」「非リア充」問題。私の周りにもリア充に憧れる非リア充が沢山いる。しかし、リア充である基準はなんであるのかまったく持って分からないままに使われている。なぜこの様な言葉が使われているのか、そしてどのように使われているのか考えたい。こんなことを考えたのはある友人のつぶやきを読んで非常に興味深かったからである。引用は単に意見を否定したいがためではなく、この様な問題を考えるひとつのきっかけとして面白かったので使わせてもらう。

友人はある日こんなことを言った。

自分から見たら十分リア充なのに他のリア充を「リア充氏ね」という時代

あーわかるよ。なんとなくその気持ち分かる。僻むと言うわけじゃない。俺はリア充になりたいのかどんな人ならリア充なのか考えると良くわからなくなるんだ。
そもそも「リア充」という言葉は2ちゃんねるの大学生活板発祥の言葉らしいが、ウィキペディアによると『当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための語だった。このニュアンスは、従来のネット文化に触れていない、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。』とされている。まず、リア充ではない人の定義は大きく分けて、
日常生活で友人がおらずネット上での交流が多いのでそれを自虐する。 
他者を「リア充」という言葉を使うことで壁を作り遠ざけ、対をなす存在として自らを定義する。 
の2つに分けられる。

少なくとも1に当てはまる人に出会うことは多くない。なぜなら日常生活で出会うことがあればその人は友人とまでは行かなくとも、少なくとも知り合いが増える訳であるし、そうすれば次第に1の定義に当てはまらなくなる。つまり1に当てはまるような人とは関わることがほとんど無いのであるから、少なくとも私の周りに1に当てはまる人は居ないはずである。
2については厄介な問題だ。当然だが、他人から見て友人の数は数量において絶対であるが、感覚において絶対では無いからである。つまり友人の数がリア充に比例することは部分的には正しいが、相対的に比べられるものではないので各々のリア充度を比較することはできないからである。そこで私はこう答えた。

自分がリア充かどうかは自分で決めればいい。

これが私なりの結論である。しかしどうも友人は自らの考えるリア充とその他の人が考えるリア充が違うと考えているようだ。

自分が考えるリア充と客観のリア充では大きく異なってる。

客観と言っても、Aさんからの客観的視点、Bさんからの客観的視点・・・と多数の人物からの評価を受けるわけであるから主観は一義的であったとしても客観は複数存在することを認めなければならないだろう。そこで私はこう答えた。

ある人に尋ねた。「君は彼女が居るんだから十分リア充じゃないか」彼は答えた。「いや違う。サークルに入って夏には気の合う仲間と合宿に行ってる君こそリア充だ」と。さて、恋人がいる者とサークルで好きなことをしている者はどちらがリア充であるのだろうか。

例え話のつもりだがだが、ほとんど同じ内容で元となった話があってこそ作った話である。これについて友人はこう答えた。

恋人は作りたくても作れないが、サークルは入れば自由に活動できるのでリア充

まず、恋人は作りたくても作れないか。という点について反論すると、確かに機会(チャンス)と行動(アクション)の2点が備わっていないと達成は不可能である。恋人が欲しい場合まず出会うきっかけが必要であり、そして告白するという行動が必要である。告白まで行かなくても、相手に気に入られるように努力しなければ振り向いてはくれない。サークルについても同様に、少なくとも大学生であることが必要である、例え興味を持ってもサークルに入部するという行動をとらなければ誰も誘ってくれない。つまり両者とも自らに与えられている機会を利用して、行動を起こさなければ達成されない。
ということは、恋人がどうしても欲しいのであれば、サークルに入りたいと幹事長さんに言わなくてはならないのと同じように自分から行動を起こさなくてはいけない。
相手から声がかかるのは、相当のイケメン・美女か構内でロナウジーニョばりのリフティングを見せた人くらいだ。(どちらにしてもシャンスがなければ声がかかることは絶対ではない)

私の友人にリア充がいる。本人はそうは思っていないらしいけど十分リア充だと思う。失礼ながらそんなにカッコよくはないけれど今までに何人もの人と付き合っている(無く昔からモテてたということ)。だから思い切って彼にどうしたらそんなに女の子とうまく行くのか聞いてみた。聞いてみて改めて思ったけど、増田で昔流行った「非モテのためのなんちゃら」とかで読んだようなことばかりなんだよ。当時、そんなエントリーを読んで「なるほどー女の子は好きそうだよね」とか「まぁ、当たり前だよね」なんて分かった気になって、結局、行動を起こせなかったということをひしひしと考えさせられる機会だった。

詳細はちょっと違ってるかもしれないけどこんな感じだった。
・気になる子のメールは早く返信する
・話しかけるときはなんとなく話しかけないでその人の名前を呼ぶ
・彼女の趣味や好きなことなんかを聞いて自分も興味を持ってみる
・とりあえず美味しいスイーツのお店とか食事に誘ってみる。何回も顔を合わせる
・最初にデートに誘うときは彼氏が入ることを前提で聞いてみる
・もちろん待ち合わせに遅刻は厳禁
・記念日にはちゃんとプレゼントをあげる
・TDLなんかに行く時はその人のタイプとか靴によってコースを決める。いづれにせよレストランやタイムスケジュールはバッチリ
・話題は切らさない。反応が悪かったらすぐに違う話題に切り替える。
・興味のある話題で基本的に相手に話させるような方向に持っていく。オープンクエスション

これだけアクションを起こしてる人を、恋愛は自分だけの問題ではなくて相手がいるから難しいと決めてしまうのは早計だろう。確かに自らが置かれている環境によってはそもそも知り合う機会が限られるわけであるから難しくはなる。しかしもし、チャンスがあるなら少なくともこのくらいのアクションをとらなければ好かれないと考えるべきである。私はこの点ひどい成績だ。もちろんモテた試しなど無い。男女共学の中学高校から総合大学に進学して少なくとも男子校出身者より、出会いは多いはずなのにこの有様ならなんと良いわけしていいものか。

最近流行りの「リア充」に関してのこのような考え方は今に始まったことではなく、一部の人の使い方でも無いように思う。私たちが日常耳にする「リア充」の定義の多くは定義1などではなく、定義2の用法で使われていることは明らかである。
「リア充」という言葉を盾にして、自分と他者が違うことを比較不可能だと認識しつつも、あたかも自分同じ境遇の人がいて、その人達を代弁するかのように壁を作ることで、実は自らを自虐しているように見せかけて自分以外の、彼らが言う「非リア充」を壁の外に追いやるのだ。
今の「リア充」には、冷やかしの対象になりやすい恋愛問題や社会人の成功談を「彼は・彼女はリア充だ」という一言で突き放し、自らを自虐しているように見せかけて単なる冷やかしの言葉。という使い方と、冷やかすつもりはないが感情を出すことによってやりきれなさを吐いている。という2つのタイプの人間が混じり合って使っている。しかし、冷やかしとしての言葉のほうがより強力であるのでどうしてもそちらに目が行ってしまう。この意味で、リア充であることがあたかも良くないこと、隠さなければいけないことのように感じるのは当然のことである。
リア充という言葉は、今ではもう漠然と成功者を押さえつけるだけの悪しき言葉でしか無いのでは無いだろうか。