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資本主義は必然的に崩壊すると76年前に予想した経済学者シュンペーター

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「企業家の役割は本質的に、何かを発明することではなく、企業が利用する環境を整えることでもなく、ただ物事を実行することにある」ーヨーゼフ・シュンペーター

資本主義の機能不全時代

資本主義では企業同士の生き馬の目を抜くような競争が日々繰り広げられ、人は成功のために上を目指す。
そんな資本主義社会が今少しづつ変わりつつある。

かつては、生活保護を恥のように捉え、働かざる者食うべからずとまで言われる世の中だったが、
ベーシック・インカム導入の議論が巻きおこり、資本主義の大本とも言えるアメリカの企業家までもが賛成している。

そして、かつては銀行預金に5%の利息がついていた時代が過ぎ去り、
銀行の貸出は冷え込み、銀行が日銀に預けている分の資金にゼロ金利もしくはマイナス金利が導入された。

AIという新しいIT技術に職を奪われると恐れる労働者と巻き起こるAI懐疑論
ラダイト運動当時の労働者に比べると、黙って身を委ねる現代の労働者は悲観的でおとなしい。

資本主義は人々の欲望をうまく扱うことで目覚ましい社会の発展に貢献した。
その発展の最大の貢献者はブルジョア階級ではなく、われわれ労働者や貧しい人々だ。

ブルジョア階級ならいつでもシルクのドレスをオートクチュールすることができた。
しかし、現代の我々も化学繊維の生地で、とても発色のよく肌触りの良いドレスを着ることが出来る。
少ない労力でより良いものを生産する。これは明らかに資本主義による最大の貢献である。

起業家たちは設備に投資し、新しい装置でより良いもの製造してきた。
生産された製品は我々の生活を埋め尽くし始めた。

人間の欲望に底はあるのだろうか

我々人間の欲望は底知れない。
お金はいくらでもあってよいだろうし、金でなんでも買えると思う人も少なくない。
しかし、最近思うことはないだろうか。


「欲しいものがあまりなくなってきたなぁ」


資本主義では企業家が成功の対価として受け取る資本というニンジンをぶら下げられることで、
物事を実行するというリスクを背負うことで、新しいイノベーションを作り出し、産業の発展を推し進めてきた。

しかし、経済が効率化してくると人間は暇になる。
暇になった時間は余暇時間と呼ばれ、観光やゲーム、友人たちとのパーティーなどに使われる。
さらに効率化が進むと、次第にその余った時間すら十分すぎるほどなる。
生産手段は改良が進み、人間が快適に生きるのに必要なモノはなんでも効率化されて手に入る。

すると、企業家はもういらない。
企業家がリスクを取らないとなると、資本家の資金の貸し手が無くなっていく。
すると利息は限りなくゼロに近づいていく。
日常的なオペレーションを回すだけで、最高効率なので産業において新しいモノは必要はない。

お金は行き場を失って価値が下がっていく。
資本主義の発展が途絶えてしまうと、産業ブルジョアはただの管理業務に成り下がる。
資本主義社会における企業は自らのイノベーションにより、結果的に自らの存在を不要化させるのだ。

生活水準の向上で欲望が自動的に膨らみ、新しい欲望が生まれたり、生み出されていくことを考えれば、飽和点は逃げ水のように逃げていく存在となる。消費財にレジャーを含めれば特にそうだろう。ただ、ここで欲望が飽和点に達する可能性を考えてみよう。生産手段が改良の余地のないほど完璧な状態に達するというさらに非現実的な過程を立てるのである。


この場合、多少なりとも静的な状態が生まれてくるはずだ。基本的に発展のプロセスである資本主義が萎縮し、企業家の仕事がなくなっていく。完全な平和が続くことが確実にわかっている社会で昇降が陥るような状況とよく似た状況に、企業家が陥る。利潤がゼロに近づき、それに伴い金利もゼロに近づいていく。利潤や利子で生活しているブルジョア階級が姿を消す傾向が見られるようになる。商工業の経営が日々の事務管理の問題になり、従業員は必然的に官僚の性格を帯びていく。実に覇気のないタイプの社会主義がほぼ自動的に誕生することになる。ビジネスに注がれていた人々のエネルギーが他の分野に注がれ、経済以外の分野が優秀な人材を引き寄せ、冒険心を掻き立てることになる。


『資本主義、社会主義、民主主義』ーヨーゼフ・シュンペーター

社会の脱魔術化と科学という人間の作り出したビッグブラザー

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マックス・ウェーバーという社会学者がいる。

彼は近代の科学的進歩を「科学と、科学によって方向づけられた技術とによる知性主義的な合理化」と表現した。
とめどない分業の流れに私達は身を委ねることになると予想した。

近代的生活は合理的であることを前提としている。
経済学は合理的経済人を想定しているし、株式市場は当然に自由市場を想定している。

日常の秩序が保たれるのも様々な科学的手続きによる保証があるが故である。
信号は青になったら渡る。労働成果を定量的に計測する。ビルの構造設計を行う。
日常は科学的手続きに基づいた設計から構成されている。科学バンザイ!


科学は経営にも入り込んでいった。
経営学の祖であるフレデリック・テイラーが科学的管理法を考案したのは20世紀初頭。
keieikanrikaikei.com
労働者の怠慢や資源の無駄遣いをへらすことで経営効率を高め、経営戦略において金字塔を打ち立てた。

科学的管理法も含めてこうした科学手続きは誰しもが学ぶことができるが、
実際は戦略コンサルタントや税理士や弁護士などの専門家に委ねる。
これこそが近代的な分業である。


でも、ちょっとまってほしい。誰がこの社会の全体を把握しているのかな。


科学は透明性が高いことを保証する。
でも、我々が社会秩序を合理的なものであると想定して良いと信じることになるという点において、
それはだれも何も知らない社会が構築されるということにならないだろうか?

じゃあ、聞いてみよう。「誰か移転価格税制のことを説明できる?」
税務の一分野だが、勤続20年の経理マンでも多くは答えられないだろう。
ものすごく税務の中でもスペシャリスト的な世界だからだ。

それでも、移転価格税制を専門にするコンサルタントは日本に500人以上はいるのだ。
驚くくらい近代の分業化は進んでいる。

でも、確かにみんなマナーを守るし、明日もあさっても安全に生活できる。
そんなことを意識しなくても誰かが秩序を保っている。
だれか「知っている主体」が常に秩序の維持に配慮してくれている。

科学が社会秩序の合理性を保証してくれるから大丈夫なんだ。
生活は科学的根拠をもとに成り立ってるからね。
科学は人間を幸せにしてくれた。透明性の高い社会にしてくれたんだ。

じゃあ次に何をすれば良いのか科学に聞いてみよう。
どうやったらみんながハッピーに生きられるのかな。
どうしたら戦争は無くせるのかな。
どうしたら原子力発電所を安全に運営できるのかな。


私たちはどう生きたいのかな?


なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

ウェーバーが世界の脱魔術化というテーゼによって指摘していたのは、科学が社会秩序の合理性を保証すべき立場に置かれるようになったということでした。しかし、これによって価格はとても応じられない課題を担わされてしまいました。というのも、私たちの共同生活を律する様々な規則は、理性的な基盤にしっかりと据えられるために絶えず取り決め直されなければなりませんが、どんな科学的研究も、規則を絶えず取り決め直すという課題から、私たちを解放することができるようには決してならないだろうからです。

科学のフェティッシュ化は、私たちの抱いている秩序への期待や秩序の表象を、ある種の専門委員会に投影することにしかなりません。しかし、そもそもどのように生きるべきかを私たち自身で決めるという責任を免除してくれる専門委員会など、あるはずがありません。p.209


『世界はなぜ存在しないのか』ーマルクス・ガブリエル

なぜ有名な画家の絵をみた時に自分でも描けると思ってしまうのか

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自分だってやればできると思うという嫉妬なのか。
それとも本当に多くの人は描けてしまうのだろうか。


私はこう思う。
おそらくそう思えたなら自分にでも描けるのだ。


事実、ピカソゴッホの絵に似ている絵を書くことができる人は世の中にたくさんいる。
パット見てどっちが本物かわからないレベルの画家もいる。

しかし彼らの書いた絵は決してピカソゴッホの絵ではない。

だから、著名な画家の絵を見て自分でも書けると思ったのであれば、それは努力と才能次第で真であろう。
しかしそれは決してピカソゴッホの絵のような価値を帯びるとは限らない。

現実は、こうだ。


描けたとしてもだから何?


一般的にはあまり知られていない有名な画家の絵を見せて、それは美術界ではものすごく絶賛された絵だったとする。それでも来場者はその絵のことを知らないので 、有名な画家の絵よりは高く評価しないだろう。

逆にとてもよく知られている画家の絵は実際には美術界においてはあまり価値がないと評価されていても、一般的に有名であれば見る人は高く評価するだろう。

それが、美術界で評価され続けるうちに次第に一般的に有名になって価値が認められていくものだ。逆に美術界で評価が低い作品は芸術という意味においては評価されないが、有名であればお金を出してでもほしいという商業的意味においては価値を持ち続けるだろう。


また、こんな話もある。
ピカソはとある人にスケッチを書いてもらうよう頼まれた。彼は100万ドルを請求した。

tabi-labo.com


うまい絵や綺麗な絵を書くことは決してできないことではない。
しかしながらその絵の価値は物理的な絵の具や構図やタッチから決められるものではない。その絵を書いた人の生き方やその絵を書くに至るまでのストーリーに価値を見出しているのであって、絵そのものに価値を見出しているわけではない。

子供の落書きのような絵を見た時に私たちは物理的に同じ絵を書くことができるという意味で誰でも書けそうだと思う。それは正しい。しかしその絵を見たときにどれぐらいの価値があるかを決めるのは見る人である。

それは一般的には他者であり、芸術家は他者に価値があると説得するだけの理由をそなえてなければならない。それを真似することはとても難しく真似したところで新しい価値にはならないだろう。

絵画を鑑賞する時には絵の構図やモチーフ筆のタッチと言った美術的な観点から見たところでその絵の価値はわからない。その芸術家が何を見てどう感じ、それまでにどういった 経緯 を辿って、この絵を描くに至ったのか。そして見る側もどういう感情でどういう歴史があって今この絵を見ているのかで価値が決まる。

想像してみよう。
あるものすごい人が作った作品をものすごく欲しい人が熱心に口説いてようやく手に渡った作品は二人の間ではそれは大変な勝ちがあると思っているかもしれないが、その価値もその二人の間だけであれば、その作品は社会的にはそれほどに価値はない。

その意味で子供でも描けるような絵という表現は決して誤りではない。子どもでも描けるからだ。


自分にでも描けるのだ。でもだから何?


もしあなたがそう思ったのであれば、あなたはもしかすると鑑賞する側の人間ではなくて、制作する側の人間なのかもしれない。他人に価値を認められなくとも、あなたの感じたままに作品を作り、それを世に問うことに生きがいを感じられるかもしれないのだから。

なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?

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